ラケットの進化によって、男子のプロテニスではスピードとパワーが強調され、ラリーが見られなくなったと嘆かれる一方、テニスは誰にでもやさしく楽しめるスポーツになりました。今回はテニスラケットの歴史を振り返ります。
●ラケットはプレーヤーが作っていた
テニスの歴史をたどると、プレーヤーがラケットを作っていた時代があります。15世紀の終わり頃のフランスでは、試験に受かるとテニスの"プロ"として認定されましたが、合格する条件として、試合で二人の"プロ"を破るほか、自分でラケットが作れることも含まれていました。ただしこのころのラケットは、まだガットは張られておらず、日本の羽子板に近いものだったようです。
ガットが張られたものをラケットとして使用するようになったのは、16世紀の中盤で、これが現在のテニスラケットのスタート地点と考えていいでしょう。その後、ラケットの柄を長くしたり、低いボールをすくいやすいように、ラケットヘッドを「く」の字型に傾けたものが出現するなど、いろいろな試行錯誤が行われ、ようやく20世紀初頭に、今日のスタンダードタイプに近い卵型のものが定着するようになりました。
●国産ラケットは1920年代半ばに登場
テニスが日本に紹介されたのは、1878(明治11)年。文部省が開設した「体育伝習所」に教師として招かれたアメリカのリーランドが、持参したテニス用具を使って指導したのが最初です。当初使用していたラケットは、すべて外国製品でした。
国産ラケットが登場したのは、1920年代半ばです。ちょうどこの頃、それまでのストローク中心だった試合が、ネットプレーを加えた戦術に移行しており、それに伴い、プレーヤーのラケット選択にも変化が現れてきました。国産ラケットは、こうしたプレースタイルに合わせてラケットが進化しようとしていた時代に生まれたのです。
後発だった国産ラケットも、短期間でプレーヤーが満足するものが作られるようになりました。1932(昭和7)年のウインブルドン、翌年のフレンチオープンで、ベスト4に入った佐藤次郎選手も、国産ラケットの愛用者でした。佐藤選手は、まだコンピュータによるランキングシステムがない当時、最も権威があるとされていたイギリスの批評家マイヤーズが選んだ世界ランキングで、3位にランクされた選手です。
●技術で「飛び」を作る
ラケットに革命的ともいえる転機が訪れたのは、1974(昭和49)年の"デカラケ"の誕生です。当時の一般的なラケットフェース面積が75平方インチ前後だったところに、面積を1.5倍にし、スイートエリアを大きくすることに成功したラケットが考案されたのです。しかし、普及するには、アメリカのパム・シュライバーが"デカラケ"を使ってUSオープンで準優勝する1978(昭和53)年まで4年間の歳月が必要でした。
こうした画期的なラケットが登場する背景にあるのは、やはり新素材の出現です。なかでもグラファイトやカーボンの出現は、ラケット設計の自由度をあげる大きなポイントになりました。この素材によって、フェースを大きくし、厚みを増しながら、軽さも追求できるようになったのです。ラケット重量が軽くなることで、プロ選手はそのパワーを生かしてラケットをはやく振り抜き、よりハードヒットできるようになりました。
しかし一般的には、ラケット自体の性能としては、軽さは「飛び」(反発性)を損ないます。そこでブリヂストンでは「飛び」のメカニズムを解析し、さまざまな角度から"軽くても飛ぶラケット"を追求してきました。新製品「WINGBEAM
S65」(重量265g)は、ボールが当たった瞬間のラケットのたわみを利用してボールを飛ばすもので、他の重量265グラムのラケットと比べれば、よりパンチ力のあるボールが打てる設計になっています。福井烈プロの全日本選手権7回の最多優勝、神尾米プロの世界ランキング24位を支えた技術は、一般テニスプレーヤーがテニスを楽しむためのラケット作りにも活かされています。
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